加世智神社の総代として配布を受けた資料です。
みなさんにもご利用いただければ幸いです。

加世智神社

加世智神社の由緒と御祭神
  現在地
  所在
  由緒
  祭神
  由緒別説
  祭祀
  境内地
  社殿
加世智神社の祭典
  月次祭典
神宮大麻(じんぐうたいま)と氏神さまのお神札(おふだ)
  神宮大麻と氏神の神札
区域の民話集 
  厄落としの杉
  名残の天神様
  笠の地蔵
  鎌田の又八の大力
  藤一の漂流

加世智神社の由緒と御祭神
現在地 松阪市大平尾町67番地(旧飯南郡港村大字大平尾町67番地)
所  在 諸説があり明確にその所在を断定することは出来ないが、現在地にある社は、旧大字石津字世奈々浦に存在していた社が、現在地に移転したものである
由  緒 創設年代は詳ではないが、御巫清直の「伊勢式内神社検録」に明記されるを見るに、当社は、古来より地元民の信仰を得ていたと思われる。
 また、大正14年1月に社掌三浦愛之助が著した「加世智神社由緒」には「背奈々浦の称は、往古この辺まで海にて漁猟を祈りたる社故に、今も造営の時には、松崎浦,漁師など近傍の漁場へ報告するなり、松坂の岡寺は往古この社の傍らに在りて鎮守の如久し言之」との伝承を残している。
 これらの社伝より察して、かって伊勢湾に面する海浜付近にあり,その鎮座地よりして、付近一帯の漁民の崇敬をあつめ、漁労の神として尊崇されて来たものと思われる。

明治6年3月村社に列し、明治41年2月に、
       村 社 八雲神社・・・大字石津字堤下
       村 社 春日神社・・・大字荒木字堤下
       村 社 九  神社・・・大字郷津字里中
         (境内)秋葉神社・・・ 々  々
         ( 々 )八雲神社・・・ 々  々
       村 社 蛭子神社・・・大字大口字元浜
         (境内社)龍 神社
         (  々  )相殿神社
         (  々  )橋姫神社
         (  々  )稲荷神社
       無格社 塩釜神社・・・大字大口字南浜
       村 社 白山神社・・・高町屋字里
         (境内社)山神社
         (無格社)山神神社
       村 社 八雲神社・・・大字久保田字里回り
          (境内社)八幡神社
          (  々  )古登毘羅神社
          (  々  )稲荷神社
       村  社 八雲神社・・・大字大塚町字松原
       無格社 八柱神社・・・ 々 々 字歯堅
            (境内社)宇賀神社   字坊海道
            (  々  )白山神社 々 々
       村 社 八雲神社・・・大字大平尾字六斗前
            (境内社)八柱神社 々 々
       村 社 菅原神社・・・大字新松ケ島字長町
              (明治39年6月25字鍛冶町村社八雲神社合祀)
       無格社 竜神社 ・・・大字薪松ケ島字新田
       村 社 八柱神社・・・大字猟師町字北浦
            (境内社)八雲神社 々 々
       村 社 八雲神社・・・大字町平尾字宮ノ腰
            以上29社を合祀し、村社加世智神社とした。さらに、同年
            4月21日には
       村 社 八雲神社・・・大字鎌田字宮ノ腰
            (無格社)八柱神社
            (  々  )出石神社
                        (  々  )松尾神社
                        (  々  )菅原神社
              五社を合祀して加世智神社と称し、同年9月11日、大字大平尾字川向67番地
       (現在地)への移転の許可を受け、同年10月25日移転の上、合祀祭が斎行された。
       明治41年4月25日神幣帛料供進指定社となる。
       昭和21年2月2日勅令第71号により、社格廃止、同日の勅令第70号
       宗教法人となり現在に至る。

祭  神 現在の祭神は,風木津別忍男神。天之菩卑能神。八意思兼神。
  豊玉姫神。大山昨神。建速須佐之男神。天津日子根神。
  白山此洋神。大山祇神。橋姫神。須瀬理姫神。活津日子根神。
  積羽八重事代主神。塩土老翁。火之迦真土神。天之忍菅耳神。
  熊野久須 神。天押足彦神。天押足彦神。天水分神。白髭神。
  市寸島比売神、多紀理 売神、乙加豆知神、金山毘古神、
  闇於加美神。多岐都姫神。天之児屋根神。豊玉彦神。品陀別神。
  宇加御魂神。菅原道真公。の三十一柱である。主神は,
  風木津別忍男神であり,他の御祭神は,明治四十一年,旧港村
  村内の神社を合祀した際,増加したものである。
  合祀された神社は,次の通りである。
  (社格)  (神社名) (旧鎮座地)  ( 祭神)
  村社  蛭子神社  大字大口小字元浜  積羽八重事代主神  
  村社  久都神社  大字郷津小字里    天押足彦命
                                                          乙加豆知命
  村社  菅原神社  大字新松ヶ島      菅原道真公
  村社  相殿神社  大字郷津字里中    市寸島比売神
  村社  白山神社  大字高町字里中    菊理姫命
  村社  八雲神社  大字大平尾字里中  建速須差之男命
                             天之忍穂耳命
                             天之菩毘能命
                             天津日子根命
  村社  八柱神社 大字猟師         活津日子根命
                             熊野久須毘命
                             多紀理姫命
                             市寸島姫命
                             田寸都比売命
                             上都綿住神
  枝社  竜宮神社 大字猟師         中都綿住神
                             底都綿住神
  村社  八雲神社  大字久保田       建速須佐之男神
    村社  八雲神社  大字大塚        建速須佐之男神
    村社  八雲神社  大字町平尾       建速須佐之男神
    村社  八雲神社  大字鎌田        建速須佐之男神
    村社  春日神社  大字石津字荒木    天之児屋根命
  枝社  塩竈神社  大字大口字南浜    事勝国勝長狭神
                             又御名塩土老爺
  枝社  橋姫神社  大字大口字柳沖    橋姫神
  枝社  稲荷神社  大字大口字堀田    宇加神社
  枝社  松尾神社  大字鎌田小字天神  大山昨神
                             又御名松尾神社
  枝社  子守神社  大字鎌田        子守神
                             又御名水分神
  末社  八橋神社  大字久保田       品駝別神
  末社  秋葉神社  大字郷津小字里    火迦具土神
  枝社  山神神社  大字高町屋       大山津見神
  枝社  山神神社  大字鎌田         大山津見神
    村社  八雲神社  大字新松ヶ島      建速須佐之男神
    末社  八雲神社  大字猟師字里     建速須佐之男神
 なお、橋村正美「神名帳考証再考」には,風木津別之忍男神を,刈稲穂の神と解して、
 保食神(ウケモチノ神)と同義と述べているが,もとより確証のない妄説である。
由緒別説 創祭祀年代は、詳らかでない。先に引用した大正十三年の「加世智神社並びに合祀神社誌編纂材料」には、当社の旧所在地について,つぎのように記している。
 「移転前ノ在社地タリシ大字石津村之名称ノ起源ヲ詮ズルニ,古来同村ノ東南二里人恐レテ鍬、鎌ヲ入レザル丘アリ。伝エテ連塚卜言ウ。コレニ依リテ考エルニ、能見宿禰ノ末孫石津連ノ塚ナルベシ、(新選姓氏録) シコウシテ,本村ノ名称ガ,コノ塚ヨリ起コレルハ明ラカナリ、(古老伝) 中略,又移転前ノ在社地タリシ小字世名浦ハ、古昔ハ安濃郡岩田川ノ南岸ヨリ度会郡二見村立石ニイタル迄ノ海浜四十八箇村ノ総名ナリ。シコウシテ,コノ四十八村ノ漁民ヨリ得ルトコロノ鮮魚ヲ御贄トシテ、日々社へ奉リシ成り。本社ハ往古ハ尤モ大社二座シタルコトハ四十八総村ノ総称ヲ唯コノ地二止ムルニテ考工知ルベキ事ナリト(伊勢名所参考)。伊勢名所参考二又イワク瀬名浦明神ノ宮二参ルニ石津村ノ田間丘陵二箇アリ 西方ナルハ、方域小ニシテ杉木三本アリテ岡寺山ノ旧地ナリ 東方ナルハ,方面モ広ク松ソノ他古樹モ多ク茂レリ是ナン瀬名浦明神ニテ小社一座マシマセリ(下略)又、大正十四年一月ニ社掌三浦愛之助ガ著シタ「加世智神社由緒」ニハ,瀬名浦ノ称ハ往古コノ辺マデ海ニシテ漁猟ヲ祈りタル社故今モ造営ノ時ニハ、松崎、猟師ナド近辺ノ漁場へ報知スルナリ。松坂ノ岡寺ハ往古コノ社ノ傍ニアリテ鎮守ノ如ク継松某ナルモノ奉仕セシ由イイ伝ウ。」
との伝承を残している。これらの社伝より察して,当社はかって,伊勢湾に面する海浜付近にあり、その鎮座地よりして付近一帯の漁民の崇敬を集め、魚猟の神として崇拝されて来たものと思われる。
神  職 現在の宮司は 竹内幸弘氏   (本務)
祭  祀 例祭 (一日、十五日)  
春季大祭(四月十五日)
秋季大祭(十月二十五日)
特殊神事
  八月一日に夏越祭りとして茅ノ輪神事と人形祈祷が斎行されている。
  その実際は「三重県下の特殊神事調」に「茅萱」を以て直径約八尺の輪を作り,之を
  鏡に擬し輪の上縁に「麻」及び「四垂」の紙を着け青竹を左右に立にたててそれを柱
  となし、上部地上より八尺の処に青竹を横たえてこれに茅ノ輪をつるし小児とて潜り
  易からしむ。
   氏子は既に各戸に配布を受けたる男女別々に染め分けたる人形を持参して,
    先つ 手水の祓い   (水)
    次に 大麻の祓い   (風)
    次に 御塩の祓い   (土)
    次に 火の祓い     (火) どんど火に
 罪穢れを托したる人形(ナデモノ)を投入し,之を以って四精の祓いを了し,
 次 茅ノ輪を潜ること三回,神社に参拝して各人はこの行事を終わる。
 この行事は当日日没より社頭に於て行なう。と記されている。 氏子 一千六00世帯
境内地 一千二四二坪
社  殿 本殿  流造り,木造銅版葺。間口五尺玉寸。奥行き七尺六寸,二坪
拝殿  木造瓦葺平屋建,間口三三尺。奥行一五尺。一二坪。
他に、幣殿,社務所,中門,帳舎,住宅がある。

加世智神社の祭典
行   事
  1日 元旦祭 
 15日 浄火祭(どんど焼き) 8:00〜15:00
 25日 月並祭 
 1日、25日 月並祭  
 1日、25日 月並祭  
 1日、25日 月並祭  
 15日 春の大祭
 1日、25日 月並祭  
 1日、25日 月並祭  
 1日、25日 月並祭  
 1日、25日 月並祭  
 1日 夏越祭
 1日、25日 月並祭  
10  1日 月並祭
 25日 秋季大祭  
11  1日、25日 月並祭  
 15日 七五三祭
12  1日、25日 月並祭  

神宮大麻(じんぐうたいま)と氏神さまのお神札(おふだ)をおまつりしましょう

区域の民話集
厄落としの杉 むかし昔、石津の田圃の中に二つの丘がありました、東の丘には、瀬奈浦明神がありました、西の岡寺山で、三本の杉の大木がありました。今の松阪の継松寺厄落としの観音さんの岡寺は天正年間までは、この杉の木のある岡寺山にありました。
話は千年ほど昔の出来事であります。
石津の岡寺さんが火事となり、お堂が丸焼けとなりました。住職の実恵上人は、
  「外の家に火が移ては相すまん」
と申されて、火を防ごうとしても手の施しようが有りません。
すると大杉の枝枝が開いて、火の手の先を塞ぎました、
上人は、杉の葉で火の粉を防ぎました。そのお陰で強い火の勢いは静まりました。すると住職は
「お堂は焼けた、御本尊様はどうなされたのかの−」と
嘆いておりますと、大杉の枝葉の間からお光がもれて来ました、すでに御本尊は御自身で火の中から飛び出され、大杉の技の間に安座して居られたのでありました、住職は大へん喜びました、この大杉のお陰で火の厄を払ってもらったのでありました。
 それから7〜80年程のことでありました。ある人が敵に追われて、岡寺山の大杉の下へ逃げてきました。あたりを見回して、「ああ、最早隠れるところはない。ここで斬り死にするまでか」 とがっかりしておりますと、大杉の太い幹が自然に裂けて、人の入れる空間ができました、「これは有りがたや、岡寺観音様のお助けだ」 と喜んで、その幹の中へ身を入れると、又空間が自然に塞がりました。そこへどやどやと敵が来て、杉の幹のぐるりをぐるぐる駆け回って探しましたが見つかりません。それもそのはず、まさか太い幹の中にかくれて居るとは知りません。とうとう敵は諦めて帰りました、幹から出たこの男の人は「有り難うございました。私は当年42歳、観音様の御慈悲によって大厄をのがして頂きました」と言って、岡寺御本尊の御前で礼拝しお礼を申すのでありました。
この事があってから、岡寺之観音様は男女の厄年の厄を除いてくださる唯一の仏様として、毎年初午の日に所方から詣るようになつたと言われます。又初午の日に岡寺へ詣って杉の葉を頂いて来る由来も、これから始まると伝えられます。
ほ美)約豊美粥蓋宝玉十貧者亨券冒朋隻正討史屯輪番史
(原拠)松坂雑集 勢陽雑記 五十鈴遺響 勢国見聞集 飯高郡史略 飯南郡誌
(異説)敵に追われた男を、杉の葉が覆い隠すと飯南郡史(岡寺記末尾)に記す
名残の天神様 大昔、伊勢の外宮さんに度会春彦という禰宜さんがいました。
世間では白大夫と言われまして、若い頃、京都で菅原道実について学問の修業をしてきた人でありました。
その菅原道実の管公様が、罪もないのに九州へ流し者にされると聞こへて来ました。白大夫は驚き悲しみ、早馬、早籠で京都へ駆けつけました。しかし、もはや管公はおられません。残されてあったのは、管公が彫られた御自分の木像だけでありました。
「ああ遅かったか、残念残念」 と悔やむ白大夫は、京をお立ちになる管公のお姿に会いたかったのでありました。
そこで、都で名高い彫刻師弓削の田波揮を呼んで、その時の管公のお姿を彫らせました。白大夫の心持ちを察して田波揮は、心をこめて造りましたので白大夫も大変喜びました。早速白大夫は、その道真公の像を背負って伊勢へ帰りました。鈴鹿山を越え、雲出川を渡り、余波の里まで参りました。その日が暮れたので村の長老の家に泊まりました。
その時、白大夫が管公像を下ろして安置しました。長老も村人も目を見張って見ると共に、皆が頭をさげておがみました。それは、見たこともないお公卿さんの姿を尊く思うと共に、都につきぬ名残りを惜しむ管公の痛ましい心持ちが、重く人々の心を引くのでありました。
美しい心は。美しい心を呼ぶのでありましょうか。村人の中から、「この管公様を余波の村に祀ってもらいたいなあ」と言う者がありました
すると。続いて「祀て下さい」「祀ってください」の声が出ました。
長老ももとからのぞむところなので、白大夫にお願いしました。
白大夫も考えました。「自分の家に祀るつもりで刻ませたお姿であるが、それでは何時までもこの悲しい思いが残るであろう。むしろ善人の里人が祀ってくれれぼ。双方に都合がよかろう。」
このように心を定めて、木像を里人に与えました。大喜びの村人は厚くお礼を言いました。さて、あくる朝、白大夫は管公のお姿にお別れするときに、「お名残りおしい。お名残惜しい。」と言って、振り返り振り返り掃って行きました。それから。余波を名残と書くようになったといわれます。 この道真公の木像は。すぐさま菅原神社を建て祀られました。俗に名残天神、あるいは旅神天満宮とも呼ぼれまして、昔から旅の無事を祈り、息災で帰郷を願う神様として有名であります。
明治40年に荒木の加世智神社に合祀されました。いまだに名残の天神さんと言って、荒木の宮さんに参っております。   
(原拠)港村誌 地許口碑
(異説)寛弘元年3月河内国茨田郡三師村の某神社の当福と言う法師が、管公の御魂代を背負って伊勢神宮の帰途名残に泊まり、村民の乞いに任せてこれを譲り、この地祀るに至地言う。   (旅神天満宮御由緒) (松ヶ崎郷土誌)
(備考)初め長町(後に新松ヶ島)に祀る。明治40年8月荒木の式内社加世智神社に合祀する。後に長町の社跡に拝所を設けたという。
笠の地蔵 昔、伊勢の国司の北畠さんが滅びた頃の話であります。
敵に追われた北畠方の武士が一人、石津の里に逃げて釆ました。道端に石の地蔵さんが有りましたので、侍はその前で、「どうかお助け下さい。お地蔵様」とお祈りをして、傍らの木立の中に隠れました。そこへ二三人の敵兵が追いかけてきました。すると、お地蔵さんの傍に一人の小僧さんが立っておりました。
「こら小僧。ここへ侍が一人来たはずだ、どちらへ行ったか」
「ハイ、あちらの方へ大急ぎで走って行かれました」
「間違いないか」 「間違いありません」
敵兵は反対の方へ走り去りました。すると、小僧の姿は消えて無くなりました。隠れていた武士は、お地蔵さんに命を助けていただいたお礼を丁寧に述べました。そして雨に濡れないようにと、自分の陣笠をお地蔵さんの頭にかぶせて立ち去りました。それからは世間では笠の地蔵と言うようになりました。その後この武士は、地蔵さんのご利益に深く感じまして、頭を丸めて出家しました。そして、新しく石地蔵さんの屋形を造り、その堂守りとなって一生を過ごしたと言われます。
笠の地蔵さんは願い事をよくきいてくださるので、お参りする人がいつ迄も絶えません。今も石津の田圃の中に残っております。
(原拠) 港村誌 地元の口碑   (備考)俗説には弘法大師御作の地蔵とも言う。
              現存の石地蔵は、高さ4〜50センチ江戸末期のものと言う。
鎌田の又八の大力 (その一)
昔、鎌田村こ生まれた鎌田又八は、大力で名高い人でありました。
この家は昔から鎌田蔵と呼ばれまして、松ケ島城下町の蔵方と言われ、威勢の強い大きな商家でありました。松阪の町へ来てからも、江戸店を持っている大商人でありました。又八は江戸本町の店に居る頃から、用心深い人で有りました。不意に避難するときの用意として、長さ1間、幅半間の戸棚を造り、太い緒綱と、一握りある樫の棒を用意しておりました。明歴3年(1657)正月の江戸大火の時に、戸棚に絹もの類を一杯つめこみ、その上に着物を入れた葛籠二個を結び着け、これを緒綱で背負い、樫の棒を突いて往来に出ました。非難する人と道に並べた荷物で大混乱の町中を、群集する人を押しわけ、妨げる物は左右に投げ捨てて、車や長持ちの上をバリバりと踏み越え踏み越え浅草へ出てきました。人々はこの様を見て、「あれは、天狗か鐘旭大王か?」等々と評判し、とても人間業ではないと言って驚きました。
(その二)
ある年友人の竹内三郎三衛門と共に松坂へ帰ろうと、駄馬を雇うて荷物を馬の背に乗せて江戸を出ました。箱根の山坂道にかかると、又八と馬子の間に問答が始まりました。「箱根の難所では馬が弱るので、どなたにも賃銭をふやしてもらいますから宜しく・・・・」「何だと、これだけの荷物なら自分たちでも持てる。馬が弱る筈がない。だから駄賃など増やす必要は少しもない。」「それは旦那の御冗談でしょう。これは人間が持てる荷物ではありません。世間並みに駄賃を増やして楽々と越して下さい。」「俺は真面目だ、冗談など言ってない、俺は商売人だから余分な賃金を払っていては商売ができない。これが自分で持てるか
持てないかよく見ておれ」又八はこう言って馬の背の荷物全部と、竹内の荷物までひと纏めにして麻縄で縛り、軽々と背負つて出かけました。
何のことはない。又八が馬となり、馬は空荷で歩き始めました。これには流石の馬子も驚きました、しかし馬子共は、「ああ言うけど難所できっとへたばるからその時うんと駄賃を、ねだってやろう」と、囁いてついて行きました。ところが又八は、歩いても歩いても疲れません。急な坂道でも平気です。馬でも弱ると言われる重荷を背負った又八は、峠の最大難所も
軽がると越えてしまいました、
「何と言う底無しの大力だろう、これは人間業ではない、天狗か魔物の仕業だろう、」と言って流石の馬子も恐れをなして、驚き呆れたと言うことでありました。
(その三)
松坂市油屋町の開眼寺、俗に山の薬師と言う寺の境内に、小さな又八稲荷の堂があります。又八が若い頃にこの稲荷大名神にいのつて力を授かったと言い伝えます。力試しがしたくなり、大河内へ行って大きな石を持ち上げたら存外軽いのです。「お稲荷さんへのお礼にしょう。」と思って、その石を10kmもある大河内から持ってきて、お稲荷さんのお船石としたのだと言われます。
今もお堂の前にすえてありますが。長さ約4m、厚さ約50cmの細長い石であります。この故にこれを又八稲荷と呼ばれています。
 次に。鎌田の吉祥寺の境内に鎌田又八の記念碑があります、石垣の壇の上に大きな自然石の碑が二基立っております、この二個の大石は又八が遠くの山からここまで持ってきたものだと言われます、
 その内の「明治百年記念碑」と刻んだ石は、昔の鎌田の山の神の社に在ったもので、「鎌田又八翁之碑」とあるのは、名残天神の参道の石橋と
なっていた石で在りました。
この鎌田又八の記念碑は。鎌田町老人の鎌寿会の人々が昭和43年7月に明治百年記念を兼ねて、郷土先人の顕彰のために建てられたのでありま
した。

(原拠)その一 近世奇踏考 新著聞集 大日本人名辞典 松坂雑集補遺

    その二 松坂興雑集 明倫人物抄 松鎌地方の伝説

    その三 明倫人物抄には、又八は四五百森神社に祈願して大力を授かると記す。
藤一の漂流 昔の飯高部猟師村は漁業と農業の村でありまレた。
この村に藤市と言う二十四歳の若者が居ました。
冬は海の猟が出来ないので、運送船で海上運送の仕事をして居ました。明治三年(1870)十一月二十六日に藤市が船頭となり、若者の常助、伊之助の三人を雇い、猟師浦を出帆して薪の積回しに、志摩の的矢浦に向かいました。船は百七十石積みでありました。
帰るはづの二十八日は大風が吹き、家族が心配していましたが帰りません。五、六日たっても何の便りも無いので、的矢へ問い合わせますと二十七日に出帆したとの返事だけでした。そこで伊勢湾や東海地方の港、港に問い合わしても立ち寄らないとの返事ばかりで、いよいよ難船したと諦めるより外はありませんでした。
八卦や占いをたてても、水死したとは少しも言いません。又水死、したとの確かな便りもありません。家族、親類中はどうする事も出来ずに唯々心配しながら日がたって行くのでありました。
その年も越えて、春も過ぎ夏となりました。その頃猟師村の内に熱病に侵された人が居ましたが、ある時高熱に浮かされて病人が言いました。
「俺は藤市である。水死したのは去年だが、未だに念仏や燈明、線香の一つも呉ず哀れな者だよ」
これを藤市の父が聞いてきました。母親は驚き嘆いて、すぐ病人の所へかけつけて「藤市のことは皆が毎日心配しておるぞ、どうしたいか聞かしてくれ」と言いますと、病人は言いました。
「俺は藤市や、この手を見てくれ、こんなにやつれ果てたので、迷うてこの所へ来た」 これを聞いた母親は馳せ帰り、藤市の女房や家族親戚も集まって、涙とともに悲しい相談をするのでありました。
 その結果、藤市は水死したものと定めて、十一月二十七日を命日としました。まず寺に届けて戒名をもらい、葬式をいとなみ、施餓鬼も行なって、一通りの弔いをすましました。やがてお盆となったので初盆精霊祭りを行ないました。一周忌がきたので、石碑も建てました。
そして藤市の死後二度目の正月を迎えました。さて藤市が出帆の頃、妊娠していた女房は、やがて安産して、その子は二歳となりました。
長男の嘉蔵は四歳となりました。最早、藤市のことは諦めるより外はない今としては、二人の子供の成長を楽しみに、女房は両親と共に暮らして行く心組みとなったのでありました。
そんな時、だしぬけに「藤市儀。無事にて帰り候につき−云々−」
と言うお上からのお達しが来ました。女房も、両親も、余りの意外さに呆気にとられ、一時ぼんやりとしてしまいました。
つづいて涙が滝のように流れました。俄の驚きと思いがけない大喜びが入り混じった涙で有りました。
明治五年正月二十三日には、藤市が度会県から引き渡されされるに付き、家族、親類中が六軒茶屋まで出迎えに行きました。じつに親子、夫婦、三年ぶりの対面で有りました。懐かしい猟師村へ帰ると、直ぐに氏神様にお礼参りをいたしました。
その翌日の二十四日には。藤市が波切の大王沖から風に流されて、今日までの奇しき変転極まる漂流談を語るのでありました。
それはすっかり藤市漂流記と言う一冊に書き留めて残っています。
(原拠)松野誠信氏「漂流誌」の前書き
(備考)これ藤市等漂流中に於ける郷里、留守宅の状況である。
    漂流中の藤市等の状況の概要を記す 四人は海上漂流中明治四年正月を迎える。    同年三月十八日常助が戦中で病死、水葬
    四月の末北太平洋アメリカ大陸に漂着。現地人の親切により順次南方に送られ、
    サンフランシスコに着き合衆国の保護を受ける。同年十一月二十七日サンフランシ
    スコ出帆の貿易船に便乗。十二月二十七日横浜港に着く、同日三十一日東京の
    和歌山県(藩)出張役場に至り届出、金十両を借り受ける。明治五年正月八日東
    京出発、正月二十二日夜帰郷、二十三日帰宅。
加藤敏敦 調
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